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2009年04月 アーカイブ

2009年04月08日

飛んでイスタンブール

『飛んでイスタンブール』(とんで- )とは、1978年にちあき哲也作詞、筒美京平作曲、庄野真代の歌で発表されたポップスの楽曲である。

『飛んでイスタンブール』は題名であると共に、本作の中盤のサビにでてくる歌詞の一節である。筒美のエキゾチックな曲風と庄野の伸びやかな美声が特徴。庄野は本作で第29回NHK紅白歌合戦の出場を果たした。今でも庄野の代表曲として知られている。

本作は失恋した女性のセンチメンタル・ジャーニーを描いた歌だが、歌詞の中にトルコのイスタンブール(イスタンブル)とは地理学上まったく無関係な「砂漠」が登場している。庄野は、ヒットから2年後の1980年に、イスタンブールを初めて訪れたが、歌にある砂漠のエキゾチックなイメージと実際のトルコの風景がまったく違うことを知った。そのときの様子を

ギリシアから長距離バスで到着したイスタンブールは、なんと、雪が舞っていた。しかも湿度が高い。今のようにインターネットで情報を収集して出かける時代ではなかったし、"エキゾチック"と"雪"は全くマッチしないから、この気候には驚いた。

? 庄野真代「歌から始まった出会い」

と述べている。

本作が大ヒットした当時は、日本人にとって海外旅行がようやく身近なものになり、また、平尾昌章&畑中葉子『カナダからの手紙』、久保田早紀『異邦人』、ジュディ・オング『魅せられて (歌謡曲)』もヒットしていて、本作も「海外旅情」や(『異邦人』と同じく)「無国籍ポップス」の流行の最先端の1曲だった。

本作の大ヒットにより日本におけるイスタンブールの知名度は飛躍的に上がり、日本人にとって「トルコといえば『飛んでイスタンブール』」と云われるほどトルコで一番有名な都市、地名となった。

当時は日本からイスタンブールへの直行便はなく、簡単に「飛んでイスタンブール」というわけにはいかなかったが、今では日本 - トルコ間(成田国際空港および関西国際空港 - イスタンブール・アタテュルク国際空港)にトルコ航空便が就航していて、まさにこの題名のようにトルコを訪れる日本人観光客が増えている。

2007年に発売された筒美京平トリビュートのオムニバスアルバムではこの曲を秋川雅史がカバーしているが、原曲の面影がないほど大胆なアレンジがされている。

バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー

2009年04月25日

レパントの海戦

レパントの海戦(レパントのかいせん)は、1571年10月7日にギリシアのコリント湾口のレパント(Lepanto)沖での、オスマン帝国海軍と、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍による海戦である。

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ヨーロッパ連合側には、ジェノヴァやイタリアの諸国家、マルタ騎士団も加わっていた。この海戦は、ヨーロッパ史においては大いなる転換点ではあったが、オスマン史においてはさほど衝撃的なものではなかった。ただしオスマン帝国がこの大敗に動揺し、スレイマン1世没後の帝国の曲がり角に立った大事件であった事は事実である。

ヨーロッパの連合艦隊は300隻からなり、有能な指揮官ドン・フアン・デ・アウストリア(スペイン王フェリペ2世の庶弟)によって指揮されていた。オスマン帝国側は、アリ・パシャに率いられた285隻であった。両軍とも大多数をガレー船が占めており、これを主力として用いた海戦としては最後のものとなった。

午前7時30分
神聖同盟軍側では総司令官ドン・フアンが小舟で各艦に激励にまわっていた。

午前11時
天候は快晴。東からの微風が吹き、帝国軍にやや有利な状況である。

同盟軍は左翼バルバリーゴ艦隊53隻、右翼ドーリア艦隊54隻で中央がドン・フアン(ヴェニエル、コロンナらが配下)の直属艦隊63隻。後衛にはサンタ・クルス提督30隻が控えている。

帝国軍は右翼シロッコ艦隊60隻、左翼ウルグ・アリ艦隊100隻、中央がアリ・パシャの直属艦隊93隻。さらに後衛に22隻がいる。

午前12時
風向きが西に変わり、帝国軍に帆を下ろすための隙が生じた。ここで先行する同盟軍のガレアス船が帝国軍を射程距離に捉えて砲撃を開始。戦果はてきめんであったが、帝国軍ガレー船は速やかに両脇を漕ぎ抜け、ガレアス船がこの後戦闘に加わることはなかった。

戦場の北、同盟軍左翼バルバリーゴ艦隊は帝国軍右翼シロッコ艦隊が後方へ回り込むのを防ぐため、海岸近くまで船を寄せていたが、地形に詳しいシロッコ艦隊の6隻が同盟軍後背に回り込むことに成功していた。激烈な戦闘が展開され、旗艦で指揮を執るバルバリーゴ司令も右目を矢で射抜かれ致命傷を負い、指揮官不在の同盟軍は崩壊しかけるが、隙を見て横付けした援軍により難を逃れた。指揮権はバルバリーゴの甥マルコ・コンタリーニが継承した。一方の帝国軍のシロッコも槍に胸を貫かれ戦死した。帝国軍は大混乱に陥り、先を競って離脱をはかったためかえって船を衝突させ被害を出した。

戦場の南、同盟軍右翼ドーリア艦隊は帝国軍左翼ウルグ・アリ艦隊と対峙し、互いに包囲されるのを防ぐためにどんどん南へ移動していた。


午後2時
中央部隊も大激戦であった。特に両軍の総旗艦が衝突した。ドン・フアンのガレー船はドーリアの進言により衝角を短くしていたため高い位置にあり、射撃(火縄銃による)の際有利であった。追い詰められたアリ・パシャが一騎打ちを挑むためかドン・フアンの旗艦に足をかけた瞬間に弾が彼に命中し、キリスト教徒のただ中に転落。ドン・フアンの意向とは反対に捕らえられ斬首された。

また、オスマン帝国軍のガレー船の櫂手がキリスト教徒の奴隷であったため、船を乗っ取れば戦力が増し同盟軍の利に働いていた。


戦場の南では、ドーリアとウルグ・アリが南へ移動し続けていたが、やがてウルグ・アリは北への転進をはかる。そこへ同盟軍左翼部隊・中央部隊で戦闘に決着がついたドン・フアンおよびサンタ・クルス侯がドーリア艦隊の救援に赴き、さらにドーリアも北へ転進した。すでにシロッコ、アリ・パシャとも戦死しており、これ以上の戦闘は無益とウルグ・アリ艦隊は逃亡した。

午後5時・戦闘終結
スペインの旗艦のマストにアリ・パシャの首が掲げられたことで、オスマン帝国側の士気は崩壊した。

なお、致命傷を受けたバルバリーゴは2日後に死亡した。他にも艦長クラス以上の戦死者18名すべてがヴェネチア人で、彼らの勇戦を物語っている。

結果は、オスマン帝国の壊滅的敗北に終わった。海戦に参加したおよそ300隻の内、40隻しか生き残ることができない程であった。3万人が死亡、ガレー船のこぎ手として拘束されていたキリスト教徒の奴隷15000人が解放された。この戦いは、紀元前31年のアクティウムの海戦とナポレオン戦争中のナイルの海戦の間に位置し、それらと同じように地中海の趨勢を決める重要な戦いの一つとなった。

この戦闘は、ヨーロッパの軍隊がオスマン帝国に大きく勝利した最初の戦いとなり、ヨーロッパに大きな心理的影響を与えた。しかし、その後、ヨーロッパ諸国は足並みがそろわず、その勝利をさらに前進させて、オスマン帝国に対する優位を獲得することにつなげることができなかった。大敗と言っても、オスマン帝国側の提督の戦略的失策によるもので、この海戦の結果が即、欧州、オスマン帝国の軍事的逆転に繋がる訳ではなかった。

オスマン帝国はすぐに艦隊の再建にとりかかり、6ヶ月後には再び大艦隊を保有し、ヴェネツィアからキプロス島を割譲させるなど、地中海における優位性を依然として維持した。ただし、地中海の西側においては、オスマン帝国の影響は及ばなくなっており、世界史上のこの戦いの意義は大きい。


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